小島政二郎
本 名 小島政二郎(こじま・まさじろう)
生年月日 1894年(明治27年)1月31日
没年月日 1994年(平成6年)3月24日
別名義 小島政二郎(こじま・まさじろう)【小説家】本名
燕子楼(えんしろう)【俳人】俳号
親 族 小島視英子(こじま・みえこ)【二番目の妻】随筆家
来 歴
1894年 東京府東京市下谷区の呉服商「柳河屋」にて次男として生まれる。
1912年 京華中学校卒業。
1918年 2月、鈴木三重吉の紹介で芥川龍之介と出会い師事。
3月、慶應義塾大学文学部文学科卒業。
1919年 慶応大学文学部講師となる。(~1931年)
鈴木三重吉編纂の児童文学誌『赤い鳥』の編纂に携わる。
1920年 文学誌『三田文学』の編集委員となる。
1922年 講釈師の5代目・神田伯龍を描いた短篇『一枚看板』を発表。
【小説家としてデビュー】
初夏、鈴木三重吉の妻の妹・みつ子と結婚。
12月、長女・美龍(みこ)が誕生。
1930年 鎌倉町由比ガ浜塔ノ辻に転居。(~1933年7月)
1934年 芥川賞・直木賞の選考委員となる。
1944年 5月、鎌倉市大町比企谷の妙本寺境内に疎開。(~1952年)
これ以降、文壇における問題発言や問題寄稿が度々見られ物議を醸し軋轢を生じることが多くなる。
1951年 雑誌『あまカラ』に食味随筆「食いしん坊」を長期連載。(~1968年)
1952年 鎌倉市雪ノ下に転居。(~1964年)
1964年 鎌倉市二階堂に転居。(~1994年)
1967年 32歳年下の二番目の妻・嘉寿子(小島視英子)と結婚。
1971年 里帰りで鳥取に行った嘉寿子が万引き事件をおこす。
1983年 自宅で大腿部を骨折。以降亡くなるまで入院生活が続く。
1994年 横浜市港南区の病院にて老衰のため没。
 鎌倉が舞台となる著作
1957年
びいどろの眼
1978年
峰の一本松