1894年 |
東京府東京市下谷区の呉服商「柳河屋」にて次男として生まれる。 |
1912年 |
京華中学校卒業。 |
1918年 |
2月、鈴木三重吉の紹介で芥川龍之介と出会い師事。
3月、慶應義塾大学文学部文学科卒業。 |
1919年 |
慶応大学文学部講師となる。(~1931年)
鈴木三重吉編纂の児童文学誌『赤い鳥』の編纂に携わる。 |
1920年 |
文学誌『三田文学』の編集委員となる。 |
1922年 |
講釈師の5代目・神田伯龍を描いた短篇『一枚看板』を発表。
【小説家としてデビュー】
初夏、鈴木三重吉の妻の妹・みつ子と結婚。
12月、長女・美龍(みこ)が誕生。 |
1930年 |
鎌倉町由比ガ浜塔ノ辻に転居。(~1933年7月) |
1934年 |
芥川賞・直木賞の選考委員となる。 |
1944年 |
5月、鎌倉市大町比企谷の妙本寺境内に疎開。(~1952年) |
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これ以降、文壇における問題発言や問題寄稿が度々見られ物議を醸し軋轢を生じることが多くなる。 |
1951年 |
雑誌『あまカラ』に食味随筆「食いしん坊」を長期連載。(~1968年) |
1952年 |
鎌倉市雪ノ下に転居。(~1964年) |
1964年 |
鎌倉市二階堂に転居。(~1994年) |
1967年 |
32歳年下の二番目の妻・嘉寿子(小島視英子)と結婚。 |
1971年 |
里帰りで鳥取に行った嘉寿子が万引き事件をおこす。 |
1983年 |
自宅で大腿部を骨折。以降亡くなるまで入院生活が続く。 |
1994年 |
横浜市港南区の病院にて老衰のため没。 |