1909年 |
青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市金木町)にて生まれる。 |
1927年 |
7月、旧制弘前高等学校(現・弘前大学)文科甲類に入学。
9月、青森市の料亭「玉屋」の仕込妓・小山初代(後の内縁の妻)と出会う。 |
1928年 |
同人誌「細胞文芸」を創刊。同誌に『無間奈落』(辻島衆二名義)を発表。 |
1929年 |
カルチモンで自殺を図る。 |
1930年 |
3月、旧制弘前高等学校を卒業。
4月、東京帝国大学文学部仏文学科に入学。
5月、小説家を志し井伏鱒二に弟子入り。
9月、東京市本所区東駒形にて初代と同棲を始める。
11月、銀座のカフェ「ホリウッド」の女給・田部シメ子と鎌倉・小動岬にてカルチモン心中を図る。シメ子のみ亡くなり、修治は鎌倉恵風園に入院。その後、自殺幇助の容疑で逮捕されるが、兄の奔走が実り起訴猶予処分となる。 |
1931年 |
2月、東京市品川区五反田に初代と共に新所帯を持つ。 |
1933年 |
2月、「サンデー東奥」に『列車』を太宰治名義で発表。
【小説家としてデビュー】 |
1934年 |
12月、檀一雄・中原中也らと共に文芸誌「青い花」を創刊。しかし創刊号のみで廃刊。 |
1935年 |
3月、都新聞社の入社試験に落ちる。その後鎌倉にある深田久弥宅を訪ねるが、その夜鶴岡八幡宮の山中で縊死を企てるが失敗。
8月、『逆行』で第1回芥川賞次席となる。選考委員だった佐藤春夫を師事。
9月、東京帝国大学を除籍。 |
1936年 |
6月、最初の単行本『晩年』を発刊。
10月、精神不安定によるバビナール依存中毒がひどくなり入院。 |
1937年 |
3月、修治の親類の画学生と初代が密通していることを知り、群馬・水上温泉にて初代とカルチモン心中未遂。
6月、初代と離別。 |
1938年 |
9月、石原美知子とお見合い、11月に婚約する。 |
1939年 |
1月、東京市杉並区にある井伏鱒二宅にて美知子と結婚。その後甲府市へ転居。 |
1940年 |
5月、『走れメロス』を刊行。 |
1944年 |
1月、熱海からの帰りに下曽我村にある大雄山荘に住む作家志望の太田静子を訪ね、愛人関係となる。 |
1945年 |
三鷹の自宅が空襲を受け、甲府に疎開。 |
1947年 |
3月、屋台のうどん屋で三鷹市にある「ミタカ美容院」の美容師・山崎富栄と出会い愛人関係となる。同月、美知子との娘・里子(津島佑子)が誕生。
11月、静子との娘・治子が誕生。 |
1948年 |
3月、熱海市の旅館「起雲閣」で『人間失格』を執筆開始、5月に完成。
6月、山崎富栄と玉川上水にて入水心中。 |