1874年 |
愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市)にて池内家の五男として生まれる。 |
1883年 |
祖母の実家・高浜家を継承、高浜姓を名乗る。 |
1888年 |
伊予尋常中学校(現・県立松山東高等学校)に入学。
1歳年上の河東碧梧桐と同級となり、彼の紹介で正岡子規から俳句を学ぶ。 |
1893年 |
碧梧桐と共に京都第三高等学校(現・京都大学総合人間学科)に進学するも翌年退学。 |
1895年 |
自分の短命を悟った子規が、虚子をその後継者にしようと説得するも拒否され決裂する。(道灌山事件) |
1897年 |
碧梧桐の元婚約者だった大畠いとと結婚。 |
1898年 |
新聞社「萬朝報」に入社するも母の病気で松山に滞在、長期欠勤で除籍。
10月、俳句雑誌社「ホトトギス社」を松山から東京に移転。虚子が継承する。 |
1902年 |
正岡子規が死亡。虚子は俳句の創作を辞め小説の創作に没頭する。 |
1903年 |
鎌倉町長谷の三橋宅で風邪の静養をする。 |
1910年 |
12月、鎌倉町乱橋材木座(現・鎌倉市由比ガ浜)に転居。(~1913年) |
1911年 |
4月、「ホトトギス」に『由井ヶ浜』を発表。
8月、「国民新聞」に『鎌倉生活』を、「ホトトギス」に『笹目』を発表。 |
1913年 |
9月、鎌倉町大町(現・由比ガ浜3丁目)に転居。(~1917年)
碧梧桐に対抗するために俳壇に復帰。 |
1917年 |
9月、鎌倉町乱場市材木座に転居。以前借りていた家を買い上げる。 |
1937年 |
帝国芸術院会員に選出。 |
1940年 |
日本俳句作家協会会長に就任。 |
1944年 |
戦火を避け長野県小諸市に疎開。(~1947年10月) |
1954年 |
文化勲章を受章。 |
1955年 |
『虚子自伝』を刊行。 |
1959年 |
鎌倉市の自宅にて脳溢血のため没。 |