星野 立子
本 名 高浜立子(たかはま・たつこ)【0歳~21歳】
→星野立子(ほしの・たつこ)【22歳~】
生年月日 1903年(明治36年)11月15日
没年月日 1984年(昭和59年)3月3日
別名義 星野立子(ほしの・たつこ)【俳人】ペンネーム
親 族 高浜虚子(たかはま・きょし)【父】俳人
高浜年尾(たかはま・としお)【長兄】俳人
池内友次郎(いけのうち・ともじろう)【次兄】作曲家
高木晴子(たかぎ・はるこ)【三妹】俳人
上野章子(うえの・あきこ)【四妹】俳人
星野天知(ほしの・てんち)【義父・夫の父】小説家
星野 椿(ほしの・つばき)【長女】俳人
来 歴
1903年 東京府麹町区富士見町にて高浜虚子の次女として生まれる。
1910年 12月、鎌倉町乱橋村材木座(現・由比ガ浜)に転居。(~1913年)
1913年 9月、鎌倉町大町(現・由比ヶ浜3丁目)に転居。(~1917年)
1917年 9月、鎌倉町乱橋村材木座に転居。以前借りていた家を買い上げる。
1924年 東京女子大学高等学部卒業。
1925年 作家・星野天知の長男で鎌倉彫職人の星野吉人と結婚。
1926年 3月、父・虚子の薦めで作句を始める。
虚子は立子の才能を高く評価していた。
1930年 2月、長女・早子(後の星野椿)が誕生。
6月、出版社「玉藻社」を創業。初の女性主宰俳誌「玉藻」を創刊。
1932年 文芸誌「ホトトギス」の同人となる。
1937年 玉藻社より句集『立子句集』を刊行。
【俳人としてデビュー】
1943年 六興出版より随筆『玉藻俳話』を刊行。
1950年 七洋社より句集『笹目』を刊行。
1956年 政府文化使節としてインド・ヨーロッパを1ヶ月訪問。
1970年 脳血栓で倒れ右半身不随・言語障害となる。
その際、俳誌「玉藻」の主宰を妹の高木晴子に任せる。
1975年 勲四等宝冠章を受章。
1984年 直腸ガンのため没。
墓 所 壽福寺
 鎌倉が舞台となる著作
1946年
小諸去り難し
1948年
雨日記
1955年
父、高濱虚子
1957年
あれから
1958年
鎌倉附近