深田 久彌
本 名 深田久彌(ふかだ・きゅうや)
生年月日 1903年(明治36年)3月11日
没年月日 1971年(昭和46年)3月21日
親 族 北畠八穂(きたばたけ・やお)【妻】小説家
中村光夫(なかむら・みつお)【義弟・二番目の妻の弟】小説家
来 歴
1903年 石川県江沼郡大聖寺町にて深田家長男として生まれる。
1922年 第一高等学校文科乙類(現・東京大学教養学部)に入学。
文芸部で堀辰雄・高見順と知り合う。
高校・大学時代に登山に目覚め各地を登山するものの、
余りに熱中しすぎたため卒業試験を放棄、留年する。
1926年 第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科に入学。
1927年 大学に在籍のまま出版社「改造社」に入社。
1928年 雑誌「新思潮」に『実録武人鑑』を掲載。
【小説家としてデビュー】
改造社十周年記念の懸賞創作募集に応募してきた北畠八穂と恋におちる。
1929年 千葉・我孫子や東京市本所区で八穂と同棲。
1930年 「改造社」を退社、帝大を中退し文筆業に専念する。
1932年 9月、八穂の健康上の理由により鎌倉二階堂・歌の橋に転居。
11月、雑誌「改造」に『あすらなう』を掲載。
この頃の久彌の作品は、八穂の発案を久彌が代作する形がほとんどだった。そのためそれを知った小林秀雄・川端康成らに厳しくたしなめられた。
また、鎌倉に転居したころから山やスキーを中心とした作品を発表し始めた。
1935年 「日本山岳会」に入会。
1938年 八穂がカリエス悪化で横臥生活になる。
1940年 父の死後に八穂と入籍。
1941年 中村光夫の結婚披露宴にて学生時代より憧れていた光夫の姉・木庭志げ子と恋におちる。
1942年 志げ子との間に長男が誕生。
1943年 八穂に志げ子との隠し子が発覚。泥沼の夫婦生活となる。
1944年 金沢歩兵第2中隊に陸軍少尉として入隊。
中国各地を転戦する。
1946年 復員後、八穂の鎌倉の家には行かず、志げ子の疎開先へ向かう。
1947年 八穂と離婚。志げ子と結婚。
八穂は代作の件を露見し、作家としての久彌の信用が失墜。
1952年 この頃よりヒマラヤ研究に関心を持つ。
1953年 山岳誌「岳人」にて『机上ヒマラヤ小話』を連載。
1958年 「アーチストアルパインクラブ」を結成。ヒマラヤ山群を探検。
1964年 新潮社より『日本百名山』を刊行。
1965年 『日本百名山』で第16回読売文学賞評論伝記部門を受賞。
1968年 「日本山岳会」副会長に就任。
1969年 「山と渓谷社賞」を受賞。
1971年 山梨県北杜市・甲斐市にある茅ヶ岳に登山中、脳卒中を起こし没。
 鎌倉が舞台となる著作
1934年
初秋の鎌倉
1935年
鎌倉仲間
1936年
鎌倉の雪
1954年
鎌倉夫人