1903年 |
石川県江沼郡大聖寺町にて深田家長男として生まれる。 |
1922年 |
第一高等学校文科乙類(現・東京大学教養学部)に入学。
文芸部で堀辰雄・高見順と知り合う。
高校・大学時代に登山に目覚め各地を登山するものの、
余りに熱中しすぎたため卒業試験を放棄、留年する。 |
1926年 |
第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科に入学。 |
1927年 |
大学に在籍のまま出版社「改造社」に入社。 |
1928年 |
雑誌「新思潮」に『実録武人鑑』を掲載。
【小説家としてデビュー】
改造社十周年記念の懸賞創作募集に応募してきた北畠八穂と恋におちる。 |
1929年 |
千葉・我孫子や東京市本所区で八穂と同棲。 |
1930年 |
「改造社」を退社、帝大を中退し文筆業に専念する。 |
1932年 |
9月、八穂の健康上の理由により鎌倉二階堂・歌の橋に転居。
11月、雑誌「改造」に『あすらなう』を掲載。
この頃の久彌の作品は、八穂の発案を久彌が代作する形がほとんどだった。そのためそれを知った小林秀雄・川端康成らに厳しくたしなめられた。
また、鎌倉に転居したころから山やスキーを中心とした作品を発表し始めた。 |
1935年 |
「日本山岳会」に入会。 |
1938年 |
八穂がカリエス悪化で横臥生活になる。 |
1940年 |
父の死後に八穂と入籍。 |
1941年 |
中村光夫の結婚披露宴にて学生時代より憧れていた光夫の姉・木庭志げ子と恋におちる。 |
1942年 |
志げ子との間に長男が誕生。 |
1943年 |
八穂に志げ子との隠し子が発覚。泥沼の夫婦生活となる。 |
1944年 |
金沢歩兵第2中隊に陸軍少尉として入隊。
中国各地を転戦する。 |
1946年 |
復員後、八穂の鎌倉の家には行かず、志げ子の疎開先へ向かう。 |
1947年 |
八穂と離婚。志げ子と結婚。
八穂は代作の件を露見し、作家としての久彌の信用が失墜。 |
1952年 |
この頃よりヒマラヤ研究に関心を持つ。 |
1953年 |
山岳誌「岳人」にて『机上ヒマラヤ小話』を連載。 |
1958年 |
「アーチストアルパインクラブ」を結成。ヒマラヤ山群を探検。 |
1964年 |
新潮社より『日本百名山』を刊行。 |
1965年 |
『日本百名山』で第16回読売文学賞評論伝記部門を受賞。 |
1968年 |
「日本山岳会」副会長に就任。 |
1969年 |
「山と渓谷社賞」を受賞。 |
1971年 |
山梨県北杜市・甲斐市にある茅ヶ岳に登山中、脳卒中を起こし没。 |