有島 生馬
本 名 有島壬生馬(ありしま・みぶま)【0歳】
→有島生馬(ありしま・いくま)【0歳~】
生年月日 1882年(明治15年)11月26日
没年月日 1974年(昭和49年)9月15日
別名義 有島生馬(ありしま・いくま)【小説家・画家】本名
雨東生(うとうせい)【俳人】俳号
十月亭(じゅうがつてい)【俳人】俳号
親 族 有島 武(ありしま・たけし)【父】実業家・横浜税関長
有島武郎(ありしま・たけお)【兄】小説家
里見 弴(さとみ・とん)【弟】小説家
森 雅之(もり・まさゆき)【甥・武郎の長男】俳優
来 歴
1882年 横浜月岡町(現・西区老松町)にて有島家の次男として生まれる。始めは生年の干支から「壬生馬」と名付けたが、読みづらいことから「生馬」と改称される。
1885年 父・武が鎌倉由井ヶ浜に別荘を建てる。
1893年 父が退官したため由井ヶ浜に転居。(~1894年)
1896年 学習院中等科に入学。
志賀直哉・黒木三次らと文芸サークル「睦友会」を結成。
1900年 3月、肋膜炎を患い、学習院中等科を退学。
5月、鎌倉町稲村ケ崎にて静養。
その後、鹿児島県平佐村(現・川内市)にて静養。この頃日本古典文学や西洋絵画に興味をもつ。
1901年 再び上京し東京外国語学校(現・東京外国語大学)イタリア語科に入学。
1903年 小山内薫の紹介で長野県小諸の島崎藤村宅を訪問。
1904年 洋画家・藤島武二を師事。
1906年 5月、イタリアへ絵画留学。その際、生馬の恋人で婚約者・関安子の世話を志賀直哉ら友人たちに頼む。
1910年 2月、帰国。有島武郎・里見弴らと「白樺」の同人となる。
関安子とあっさり別れ、原田信子と結婚。
1913年 第1小説集『蝙蝠が如く』を刊行。
【小説家としてデビュー】
1914年 有島生馬・津田青楓・山下新太郎らが不満を持ち「文部省美術展覧会」から分離、美術家団体「二科会」を結成。
1916年 第2小説集『南欧の日』を発刊するも、風俗壌乱のかどで発売禁止処分となる。
1920年 自由で縛られない校風を持つ自由な学校「文化学校」が創立。講師となる。
1921年 鎌倉町極楽寺(現・稲村ガ崎)にあるイタリア貿易商の洋館が気に入り邸宅を購入、転居する。(~1974年)
館のそばに松が群生していたことから通称「松の屋敷」と呼ばれる。
1928年 フランスよりレジオンドヌール勲章を授与。
1935年 帝国芸術院の大改革に伴い会員に挙げられる。その際「二科会」を脱退。
日本ペンクラブ副会長に就任。
1937年 帝国芸術院会員に選出。
1958年 日展常務理事に就任。
1964年 文化功労者に選出。
1965年 勲三等旭日中綬章を受章。
1974年 鎌倉市の病院にて老衰のため没。
 鎌倉が舞台となる著作
なし