1882年 |
横浜月岡町(現・西区老松町)にて有島家の次男として生まれる。始めは生年の干支から「壬生馬」と名付けたが、読みづらいことから「生馬」と改称される。 |
1885年 |
父・武が鎌倉由井ヶ浜に別荘を建てる。 |
1893年 |
父が退官したため由井ヶ浜に転居。(~1894年) |
1896年 |
学習院中等科に入学。
志賀直哉・黒木三次らと文芸サークル「睦友会」を結成。 |
1900年 |
3月、肋膜炎を患い、学習院中等科を退学。
5月、鎌倉町稲村ケ崎にて静養。
その後、鹿児島県平佐村(現・川内市)にて静養。この頃日本古典文学や西洋絵画に興味をもつ。 |
1901年 |
再び上京し東京外国語学校(現・東京外国語大学)イタリア語科に入学。 |
1903年 |
小山内薫の紹介で長野県小諸の島崎藤村宅を訪問。 |
1904年 |
洋画家・藤島武二を師事。 |
1906年 |
5月、イタリアへ絵画留学。その際、生馬の恋人で婚約者・関安子の世話を志賀直哉ら友人たちに頼む。 |
1910年 |
2月、帰国。有島武郎・里見弴らと「白樺」の同人となる。
関安子とあっさり別れ、原田信子と結婚。 |
1913年 |
第1小説集『蝙蝠が如く』を刊行。
【小説家としてデビュー】 |
1914年 |
有島生馬・津田青楓・山下新太郎らが不満を持ち「文部省美術展覧会」から分離、美術家団体「二科会」を結成。 |
1916年 |
第2小説集『南欧の日』を発刊するも、風俗壌乱のかどで発売禁止処分となる。 |
1920年 |
自由で縛られない校風を持つ自由な学校「文化学校」が創立。講師となる。 |
1921年 |
鎌倉町極楽寺(現・稲村ガ崎)にあるイタリア貿易商の洋館が気に入り邸宅を購入、転居する。(~1974年)
館のそばに松が群生していたことから通称「松の屋敷」と呼ばれる。 |
1928年 |
フランスよりレジオンドヌール勲章を授与。 |
1935年 |
帝国芸術院の大改革に伴い会員に挙げられる。その際「二科会」を脱退。
日本ペンクラブ副会長に就任。 |
1937年 |
帝国芸術院会員に選出。 |
1958年 |
日展常務理事に就任。 |
1964年 |
文化功労者に選出。 |
1965年 |
勲三等旭日中綬章を受章。 |
1974年 |
鎌倉市の病院にて老衰のため没。 |