1883年 |
京都府愛宕郡上賀茂村の上賀茂神社の社家の次男として生まれる。妻の不貞でできた子であったため、父は房次郎の生前に自殺。母は滋賀県滋賀郡坂本の農家に房次郎を預け失踪。しかし農家でも房次郎が放置状態であったため、村の巡査・服部が自宅へ連れて帰り養子縁組する。さらに巡査が行方不明、巡査の妻も病死し服部の養子(義兄)夫婦が世話をすることになった。 |
1887年 |
義兄が死に、妻が房次郎を実家に連れて帰るも激しい虐待を受ける。 |
1889年 |
虐待の様子を見るに見かねて上京区竹屋町の木版師・福田武道・フサ夫妻が房次郎を養子とする。福田家では炊事を手伝い、味覚や料理の基本を覚えていく。 |
1895年 |
京都二条の薬問屋「千坂和薬店」で住み込みの丁稚奉公に出る。そこで絵に対する好奇心や情熱を高める。 |
1896年 |
丁稚奉公を辞め養父の木版の仕事を手伝う。そこで芸術性の基礎的な感覚を学ぶ。 |
1904年 |
日本美術協会主催の美術展覧会に『千字文(福田海砂名義)』を出品。21歳で褒状一等二席を受賞。 |
1905年 |
町書家・岡本可亭の内弟子となる。「福田可逸」を名乗る。 |
1907年 |
「福田鴨亭」を名乗り、可亭の門から独立。 |
1908年 |
最初の結婚をする。房次郎は生涯6度の結婚をするが全て破綻。(1917年・1927年・1938年・1940年・1948年) |
1910年 |
朝鮮総督府京龍印刷局の書記として3年間働く。 |
1912年 |
帰国し敬愛する日本画家・竹内栖鳳と知り合い日本画家の巨匠たちと交わりが始まる。 |
1916年 |
実母から家督相続を請われ北大路姓を継ぐ。 |
1917年 |
実業家・中村竹四郎と共同経営で古美術店「大雅堂」を開店。 |
1919年 |
鎌倉・円覚寺の元寺侍の邸を借り移住。(~1926年) |
1925年 |
3月、永田町の会員制高級料亭「星岡茶寮」を借り受け顧問となる。 |
1926年 |
鎌倉郡深沢村山崎に窯を築き始める。 |
1927年 |
山崎に魯山人窯研究所「星岡窯」を発足。本格的な作陶活動を開始する。 |
1936年 |
魯山人の横暴さや出費の多さにより、「星岡茶寮」から追放。 |
1946年 |
銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店。 |
1955年 |
織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。 |
1959年 |
横浜市南区の病院にて肝硬変のため没。 |
1998年 |
管理人の放火と焼身自殺により「星岡窯」の家屋が焼失。 |