北大路魯山人
本 名 北大路房次郎(きたおおじ・ふさじろう)【0歳】
→服部房次郎(はっとり・ふさじろう)【0歳~6歳】
→福田房次郎(ふくだ・ふさじろう)【6歳~33歳】
→北大路房次郎(きたおおじ・ふさじろう)【33歳~】
生年月日 1883年(明治16年)3月23日
没年月日 1959年(昭和34年)12月21日
別名義 北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)【画家・随筆家・美術家・美食家】
福田海砂(ふくだ・かいさ)【画家】
福田可逸(ふくだ・かいつ)【書道家】
福田鴨亭(ふくだ・おうてい)【書道家】
福田大観(ふくだ・たいかん)【書道家・画家・篆刻家】
北大路魯卿(きたおおじ・ろけい)【書道家・画家・篆刻家】 など
親 族 北大路泰嗣(きたおおじ・ひろし)【孫】陶芸家
来 歴
1883年 京都府愛宕郡上賀茂村の上賀茂神社の社家の次男として生まれる。妻の不貞でできた子であったため、父は房次郎の生前に自殺。母は滋賀県滋賀郡坂本の農家に房次郎を預け失踪。しかし農家でも房次郎が放置状態であったため、村の巡査・服部が自宅へ連れて帰り養子縁組する。さらに巡査が行方不明、巡査の妻も病死し服部の養子(義兄)夫婦が世話をすることになった。
1887年 義兄が死に、妻が房次郎を実家に連れて帰るも激しい虐待を受ける。
1889年 虐待の様子を見るに見かねて上京区竹屋町の木版師・福田武道・フサ夫妻が房次郎を養子とする。福田家では炊事を手伝い、味覚や料理の基本を覚えていく。
1895年 京都二条の薬問屋「千坂和薬店」で住み込みの丁稚奉公に出る。そこで絵に対する好奇心や情熱を高める。
1896年 丁稚奉公を辞め養父の木版の仕事を手伝う。そこで芸術性の基礎的な感覚を学ぶ。
1904年 日本美術協会主催の美術展覧会に『千字文(福田海砂名義)』を出品。21歳で褒状一等二席を受賞。
1905年 町書家・岡本可亭の内弟子となる。「福田可逸」を名乗る。
1907年 「福田鴨亭」を名乗り、可亭の門から独立。
1908年 最初の結婚をする。房次郎は生涯6度の結婚をするが全て破綻。(1917年・1927年・1938年・1940年・1948年)
1910年 朝鮮総督府京龍印刷局の書記として3年間働く。
1912年 帰国し敬愛する日本画家・竹内栖鳳と知り合い日本画家の巨匠たちと交わりが始まる。
1916年 実母から家督相続を請われ北大路姓を継ぐ。
1917年 実業家・中村竹四郎と共同経営で古美術店「大雅堂」を開店。
1919年 鎌倉・円覚寺の元寺侍の邸を借り移住。(~1926年)
1925年 3月、永田町の会員制高級料亭「星岡茶寮」を借り受け顧問となる。
1926年 鎌倉郡深沢村山崎に窯を築き始める。
1927年 山崎に魯山人窯研究所「星岡窯」を発足。本格的な作陶活動を開始する。
1936年 魯山人の横暴さや出費の多さにより、「星岡茶寮」から追放。
1946年 銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店。
1955年 織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。
1959年 横浜市南区の病院にて肝硬変のため没。
1998年 管理人の放火と焼身自殺により「星岡窯」の家屋が焼失。
 鎌倉が舞台となる著作
1933年
なぜ作陶を志したか

1934年
素人製陶本窯を
築くべからず
1935年
料理は道理を料るもの

1938年
いなせな縞の初鰹

1959年
山椒魚