かまくらのとも紀行

鎌倉を散策中に出会った光景をちらほらと…
内藤家墓地
 材木座にある浄土宗の大本山光明寺。ここに「日本のアンコールワット」とも思えるべき場所がある。磐城平藩・延岡藩・湯長谷藩を任された内藤家の当主とその夫人、家臣などの墓となる宝篋印塔40基、灯籠118基などが一つの墓地に建立された大規模な大名墓地で、この場所を「内藤家墓地」と呼ばれている。

 内藤家は戦国時代に松平氏(徳川氏)に仕え、中でも内藤家長(1546~1600)は武勇に優れ、弓の名手として主要な合戦に参戦、大いなる戦功を挙げ家康から大いに信頼された。1600年家長は、関ヶ原の前哨戦となる伏見城攻防戦で、鳥居元忠・松平家忠らとともに城の守備軍となり、戦死してしまう。家督は長男の政長が継ぎ、父の功績を加えた上総国佐貫3万石の所領を与えられた。
 政長は大坂冬の陣・夏の陣で留守居役を任されるなどの功績をあげ、1622年陸奥磐城平7万石に加増転封された。
 その後内藤家は磐城平藩を任されるが、藩政悪化により1747年に日向国延岡7万石に転封、廃藩置県の1871年まで城主を務めあげた。また、1670年に分知した湯長谷藩もほとんどが養子で継承するものの、幕末まで城主を守った。
 そもそも内藤家は江戸向島の霊厳寺(浄土宗)の檀家であったが、1657年江戸の大半を消失してしまう「明暦の大火」で寺が焼失。その後色々ないきさつがあって磐城平藩2代・内藤忠興の時に、光明寺に200石を寄進し檀家となり、墓を移転した。

内藤家墓地の略図と内藤家歴代藩主は下記の通り。
略図を描いたサイト管理人のセンスの無さや粗雑さは広い心で受け止めていただきたい。

 磐城平藩 7万石 (現・福島県いわき市・双葉郡広野町、楢葉町など) 
墓所 藩主名 生没年 藩主在位
1 1 内藤 政長 1568-1634 1622-1634 江戸の留守居役などの功績から磐城平藩7万石を拝領。
2 2 内藤 忠興 1592-1674 1634-1670 約10年にわたり新田開発や検地を行い(寛永寅の縄)、石高を2万石増加させる。また「家中法度」「諸代官郷中取扱之定」「郷中御壁書」を制定。
3 3 内藤 義概 1619-1685 1670-1685 父から藩を引き継ぐと同時に、弟の遠山政亮に1万石を分与し湯本藩(後の湯長谷藩)を立藩させる。寺社仏閣再建や防風林の植樹に尽力。俳句や和歌をたしなむ教養人。晩年に藩主跡目争いを含む家臣による悪政「小姓騒動」がおこり、藩政がぐらつき始める。
4 4 内藤 義孝 1669-1713 1685-1712 藩政の安定に努め、湯本神社を建設。しかし藩政は不安定なまま。
5 5 内藤 義稠 1697-1718 1712-1718 大きな功績は特になし。
6 1 内藤 政樹 1706-1766 1718-1747 1738年9月「元文百姓一揆」により藩政は悪化。日向延岡に転封。
 延岡藩 7万石 (現・宮崎県宮崎市、延岡市など)
1 1 内藤 政樹 1706-1766 1747-1756 財政難の藩政を引き継ぐことに…。
2 2 内藤 政陽 1739-1781 1756-1770 日向諸藩では初の「藩校」を開設。
3 3 内藤 政脩 1752-1805 1770-1790 天明の大飢饉で被害を受け、新田開発を行う。
4 4 内藤 政韶 1776-1802 1790-1802 飢饉による財政難を立て直せず。
5 5 内藤 政和 1787-1806 1802-1806 大きな功績は特になし。
6 6 内藤 政順 1796-1834 1806-1834 蝋・和紙・菜種の生産を奨励。
7 7 内藤 政義 1820-1888 1834-1862 専売制の強化により、財政の立て直しを図るが…。
8 内藤 政挙 1852-1927 1862-1871 新政府より「朝敵」と認定される。1869年に版籍奉還により知藩事(藩知事)となり、1871年廃藩置県により免官。
 湯長谷藩 1万5千石 (当初は湯本藩 1万石) (現・福島県いわき市など)
1 1 遠山 政亮 1625-1693 1670-1693 城下町建設に尽力。5千石を加増。
2 2 遠山 政徳 1674-1703 1694-1703 生涯独身。
3 3 内藤 政貞 1685-1722 1703-1722 日光祭礼奉行を務める。また姓を内藤氏に戻す。
4 4 内藤 政醇 1711-1741 1722-1741 1725年吉宗に御目見。「忠孝・倹約・扶助」の藩法を制定。
5 5 内藤 政業 1740-1769 1741-1761 2歳で後を引き継ぐ。
6 6 内藤 貞幹 1746-1778 1761-1778 紀州・徳川宗直の六男。
7 7 内藤 政広 1770-1787 1778-1787 天明の大飢饉で被害を受ける。
8 8 内藤 政偏 1773-1799 1787-1799 1790年家斉に御目見。
9 9 内藤 政環 1785-1836 1799-1824 水難・干ばつと多難が続く。
10 10 内藤 政民 1806-1855 1824-1855 藩校・致道館の建設に尽力。
11 11 内藤 政恒 1836-1859 1855-1859 政民の婿養子として後を引き継ぐ。
12 12 内藤 政敏 1843-1863 1859-1863 1862年従五位下因幡守に叙任。
13 内藤 政養 1857-1911 1863-1868 奥羽越列藩同盟に参加、新政府軍に攻められ降伏。
14 内藤 政憲 1848-1919 1869-1871 1869年に版籍奉還により知藩事(藩知事)となり、1871年廃藩置県により免官。

 光明寺の寺務所へ行き、墓地へ行くための3つの鍵を受け取る。一つは墓地の鍵、残る2つは墓地へ行くまでの間に通り抜ける「材木座幼稚園」の門の鍵である。開錠に手間がかからなければ、寺務所から徒歩2分ほどで墓地に到着する。墓地の内部は、まるで遺跡の中にいるような雰囲気をもち、宝篋印塔も一般的な人間の身長よりも高いものが多いため、大いにその迫力を感じることができる。

入り口付近にたたずむ六地蔵。 延岡藩城主とその夫人のお墓。
正面の真ん中は磐城平藩2代忠興の正室のお墓。 墓地中央の六地蔵。何体かに損傷が見られる。
磐城平藩城主のお墓や夫人の墓が並ぶ。 湯長谷藩主のお墓は密集する形で建立している。
灯籠もたくさん立ち並んでいる。 磐城平藩2代藩主・忠興公のお墓。
家紋入りの手水鉢。 このお地蔵様、左に目線が行っているが、何か気になるのだろうか…。

こちらで眠る湯長谷藩の騒動を描いた作品に
土橋章宏著「超高速参勤交代」「超高速参勤交代リターンズ」がある。
お上から無理難題を突きつけられた湯長谷藩主・内藤政醇が家老たちと知恵を絞り策をこらすという内容。
その後映画化もされている。


 尚、毎年6月には、元家臣などの末裔の方々が一同に集まり「内藤忌」の法要が行われている。

 参考図書
 地図

 浄土宗大本山光明寺

  鎌倉市材木座6-17-19


  JR横須賀線「鎌倉」下車より

        バス「光明寺」徒歩2分

    ※墓参の方は光明寺寺務所へ